アガサ・クリスティー長編五作目/バトル警視シリーズ一作目。
クリスティーの冒険小説のなかではピカイチの出来?
あらすじ
王政復古の機運が熟したある国をめぐって、さまざまな人物たちがいりみだれるチムニーズ館。そこで突如殺人事件が発生した。バトル警視以下、館に集った英米仏の探偵たちは推理合戦を展開することになるが……。――早川公式サイトより
感想
※初読です。
こんにちは、箱庭皇帝です。
以前にも述べたようにクリスティーは探偵小説を書くかたわら、裏芸のようにときおり冒険小説を書くことがありました。というより初期長編五作のうち、『秘密機関』(二作目)、『茶色の服の男』(四作目)、当作と、なんと過半数が冒険小説なわけで、これでは冒険小説のあいまに探偵小説を書いていると言っても過言ではないかもしれません。
私は前二作はもちろんのこと、その他の冒険ものも少しは読んでいるかと思いますが、なかでもこの作品はピカイチの出来だと思いました。正直これまでクリスティーの書く冒険小説に特筆すべきものはないという印象でしたが、これは大当たりといってもよいのではないでしょうか。
この作品はクリスティーのなかでもかなり密度の高い部類に入ります。というのも一作のなかに、ある国の王位継承問題や政治闘争、同国の油田をめぐる各国の思惑、盗まれた宝石や泥棒の行方、秘密の恋文をめぐる恐喝事件、殺人事件とその犯人、怪しい登場人物の数々とその正体など、さまざまな謎がてんこ盛りだからです。これだけの要素をよくもこの一冊に盛り込めたなというのが率直な感想です。
もちろんそれがために相当集中して読まないと、いまなにが起こっているのかたびたび混乱してしまうことでしょう。それに付随して登場人物も多いので(おまけにあだ名も多い。コダーズはジョージ・ロマックス氏のことです)、登場人物表を確認しながら読まないと誰が誰やらさっぱりだとなってしまうかもしれません。
しかしそれらに耐えて読み進めると、中盤からは巧妙に張られた伏線が気持ちよく回収されていきます。そのテンポのよさはクリスティーの作品のなかでもトップクラスではないでしょうか。
あえて難点をあげるとするならば、推理小説の華であるはずの殺人事件がかなり地味であることでしょうか。読書中、「ああ、そういえばもう事件は起きていたんだっけ」となることがしばしばでした。おまけにその犯人も、意外といえば意外ですが、個人的にあまり納得感のいく犯人ではありませんでした。若いころに読んでいたらもっと評価していたかもしれませんが、最近の私はただ意外なだけの犯人はあまり評価する気になれません。
バトル警視はレース大佐と同様とても地味ですが、個人的にはバトル警視のほうがより魅力的に思えました。あらゆる行動に抑制がきいていて、寡黙なところがいいですね。まあ、そのせいで地味なんですが。
ロマンスはいつものクリスティー節ですが、『茶色の服の男』ほどの気恥ずかしさはありません。ここに来てあらためて思ったのですが、ストーリーを安直に悲劇の展開にもっていかないのがクリスティーの素晴らしいところですね。この愚直なまでにハッピーエンドを好むアガサ・クリスティーという作家にますます人間的な興味が湧いてきました。
ネタバレ感想
上述のようにこの作品は殺人事件が脇に追いやられるほどにさまざまな謎とその解決が盛り込まれています。ここまでプロットが複雑になると、作品全般が散漫な印象になることも多いのですが、この作品は不思議とそのようなことがありません。
それは作者がプロット構築において執拗なまでに人物の偽装を多用しているからでしょう。クリスティーは作品ごとにプロットの様式にこだわる作家、すなわちプロットの構築にその都度明確なテーマを設ける(ことが多い)作家だと思っているのですが、この作品においてのプロットのテーマが、作中の謎とその解決に可能なかぎり人物の偽装をからめるというものだったのではないでしょうか。
たとえば主人公のアンソニー・ケイドは友人のジミーと入れ替わりますし、ミカエル王子はボールダーソン・アンド・ホジキンズ社のホームズ氏に化けている。ヴァラガ女王は家庭教師のブランに成りすまし、キング・ヴィクターはルモワーヌに化けている。手紙のやりとりも別人がレヴェルの名をかたっておこなっている。あまつさえアンソニー・ケイドの本当の正体は――といった調子で、これらはおそらく意図的にやっていることでしょう。そうすることで目的が散逸しがちなこの作品に一つの軸を与えているのです。もっともこうした試みは人によっては一つのネタの横着なコピペに映るかもしれませんが。
それにしても繰り返しになりますが、この作品の殺人事件のなんと地味なことでしょうか。二つ目のミカエル殺しのほうはともかく、みなさんは一つ目の事件の犯人を覚えていますか? 私はすっかり忘れていて、該当箇所を見つけるのに苦労しました。
ところで私はたびたびクリスティーの偶然性の扱いに苦言を呈していますが、残念ながらこの作品にもそれは見られます。とりわけジェイムズ・マグラスの複数の事件関係者との関わり方はひどいもので、こんな偶然ははっきり言ってありえないでしょう。クリスティーの作品を読んでいると、世界はまるで一つの市ほどの大きさしかないのかと錯覚してしまいそうです。
ともあれ作品自体は多数のアイデアを惜しげもなく注ぎ込んだ贅沢なもので、かつデビュー作のようなわかりにくさや、前作のような過剰な少女趣味もやわらぎ、個人的にはとても満足のゆく読後感でした。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品との兼ね合いで評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/高橋豊(訳)] チムニーズ館の秘密 (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティ/山田順子(訳)] チムニーズ館の秘密 【新訳版】 (創元推理文庫)
【前作長編】 [アガサ・クリスティー/深町眞理子(訳)] 茶色の服の男 (クリスティー文庫) ※レース大佐
【次作長編】 [アガサ・クリスティー/羽田詩津子(訳)] アクロイド殺し (クリスティー文庫) ※ポアロ