【読書感想】 [アガサ・クリスティー/山本やよい(訳)] オリエント急行の殺人 (クリスティー文庫)

オリエント急行の殺人

アガサ・クリスティー長編十四作目/ポアロシリーズ長編八作目。

群像ミステリの傑作であり、フーダニットの極北。

あらすじ

真冬の欧州を走る豪華列車オリエント急行には、国籍も身分も様々な乗客が乗り込んでいた。奇妙な雰囲気に包まれたその車内で、いわくありげな老富豪が無残な刺殺体で発見される。偶然乗り合わせた名探偵ポアロが捜査に乗り出すが、すべての乗客には完璧なアリバイが……。――早川公式サイトより

感想

※再読です。

こんにちは、箱庭皇帝です。

『オリエント急行の殺人』は『アクロイド殺し』や『そして誰もいなくなった』と並ぶクリスティーの代表作であり、また『アクロイド殺し』と同様に、ネタバレ回避が非常に困難な作品としても知られています(笑)。その点では私は幸運な読者と言え、ネタバレや映像作品を見る前に読み終えることができ、見事に騙される経験を味わえました。

それではそのときの私(十代だったかな?)がメチャクチャ感動したのかといえばむしろその逆で、犯人が明かされたときは「ええ? そんなのってあり?」、ポアロが最後に選んだ解決方法も「ええ? ほんとにそれでいいの?」と、なんとも消化不良を覚えたものです。

しかしながら今回再読して思ったのは、やはりこの作品は作者の代表作にふさわしい傑作であると認めざるをえないなということでした。具体的な中身についてはネタバレ感想で述べるとして、なにより作品を支配する空気感がすばらしい。

初読時には気づかなかったのですが、本作の構成って非常に単純なんですよね。序盤のポアロがオリエント急行に乗り込むくだりを除けば、驚くべきことに、大半が客室や食堂車で登場人物にそれぞれ一、二回尋問するだけで終わってしまいます。

にもかかわらず、読んでいる最中の私は、豪華列車で優雅な旅をしている気分に浸っていてそのことをあまり意識しないのです。これは作者の筆力と雰囲気作りのなせる技でしょうし、そもそもがこのプロットで(のちに映像作品になるほど)しっかりとした長編になると踏んだ作者の眼力に脱帽です。

そして初読時には不満をもったフーダニットも、今回作者の刊行順に読んできたことで、「犯人の意外性」に対する彼女の妥協のないこだわりがここでひとつの頂点を迎えたのだという見方が可能となり、そうすると印象ががらりと変わってくるのです。

今回再読して意外だったのは、不慮の事故で列車が止まるのが思いのほか早かったこと。プロット上仕方がなかったのかもしれませんが、これでは「吹雪の山荘」と実質変わりがありません。できれば列車は止めずに勝負してほしかった。

もう一つは結末の展開で、もう少し苦渋の末の決断だったように記憶していたのですが、じつにあっさりとしています。個人的にはこれくらいでちょうどよく、私が見た映像作品ではこれに説得力を持たせようと、あれこれ理屈や演出を加えていますが、どれも蛇足になっていますね。深刻な状況ほど、あまり語りすぎると嘘くさくなるのです。

ネタバレ感想

『オリエント急行の殺人』は『アクロイド殺し』と同様にクリスティーの代表作の一つですが、皮肉なことに両者とも彼女のなかでは異端児的な作品になります。すなわち本格ミステリの作法的な意味において、反則すれすれのフーダニットを用いているので、予備知識がなければまず犯人が当てられません(あくまでも執筆当時の話です)。

それをいいことに、作者は『アクロイド殺し』では露骨なヒントをこれでもかと言わんばかりに作中に散りばめました。本作もそれは変わらず、登場人物全員が犯人であるという仄めかしはありとあらゆる箇所にひそんでいます。とりわけ十二の刺し傷の描写については、真相を知ったうえで読んでみると、ここまで書いてしまって大丈夫なのかとドキドキしてしまうほどです。

それと関連して本作での面白い特徴は、作者の得意とするダブルミーニングがあまり用いられていないことです。

たとえば、

 手荷物運搬車の陰にぼんやりした人影が二つ立っているのに気づいたのは、話し声がしたからだった。アーバスノット大佐の声だった。
「メアリ――」
 若い女性がそれをさえぎった。
「いまはだめ。いまはだめよ。すべてが終わってから。何もかも片づいたら――そしたら――」
 ポアロは足音を忍ばせてひきかえした。首をひねった。

という場面では、通常のクリスティー作品なら、事件に関係あるように見せかけてじつはなかったり(と思ったらやっぱり関係あったり~)となるところですが、本作では文章そのままの解釈でOKなのです。

ほかにも、

「こんなことをお尋ねするのは図々しいかもしれませんが、どうしてわかったんでしょう? ラチェットの正体が」
「コンパートメントで見つかった手紙の切れ端からです」
「えっ、あれは――い、いや――あの男にしてはいささか不注意でしたね」

とか、

「失礼ですけど、ムッシュー、お名前を伺ってもよろしくて? どこかでお見かけしたような気がしますの」
「エルキュール・ポアロと申します、マダム――お見知りおきください」
 公爵夫人はしばらく沈黙していたが、やがて言った。
「エルキュール・ポアロ。そうだわ。思いだしました。こうなる運命でしたのね」

などなど、じつに素直な描写です。

なにしろ全員が犯人というのがフーダニットの正解ですから、読者が個々人をどれだけ疑おうが、作者としてはなにも困らないわけです。しかしながらそれゆえに初読時の私には、『オリエント急行の殺人』が(全員が犯人という)アイデアだよりの手抜きの作品に映ったのでした。

しかしながら再読して思ったのは、作者は手抜きどころか、この全員が犯人というのを本格ミステリのフォーマットで成立させるために、細心の注意を払ってプロットを構築しているなと感じました。とりわけ各登場人物のアリバイを誰に証言させるかの案配はじつに見事だと思います。上述した容疑者たちの「素直な証言」の数々も、そうすることで読者の疑いを個々人へとミスリードし、いっぽうで全員が犯人であるというヒントも存分に盛り込むことで公平性を重んじるミステリ小説として絶妙なバランスを保っています。

若いころの私は、こんな大勢の人間がはたして他人のために殺人など犯すだろうかと疑問に感じる気持ちのほうが強かった覚えがありますが、よくよく考えてみると、日本にも忠臣蔵のような話はありますし、また昨今のいわゆるポリコレの暴走などを見るにつけ、正義を名分とした振る舞いというのは一度火がつくと止めるのが難しいという意味で、こうしたことも十分ありうるかもしれないと思うようになりました。

というわけで『オリエント急行の殺人』は、私のなかで再読時に大きく評価が上がった作品の一つです。

【その他、メモ書き】

  • 作中で犯人らはあえて証拠を残したりしていますが、ぶっちゃけ架空の人物の証言以外、余計なことはしないほうがよかったのでは?
  • 白い紙にレモン汁のあぶり出しは私もやったことはありますが、黒焦げの手紙からのあぶり出しなんて現実的に可能なんですかね?
  • クリスティー作品の探偵の推理はたいがい強引ですが、今回は会話劇に終始することもあって、登場人物とアームストロング家との関係をポアロが暴くくだりはいつにも増して飛躍が多い気がします。

採点

フーダニット ★★★★☆ なかなか評価が難しい。初読時は不満だったが、いまは若干肯定よりの気分。
ハウダニット ★★★☆ 犯行時刻を巡るくだりなどはけっこう凝っている。ただし無駄な小細工も多い?
ホワイダニット ★★★★ 意外性はないが、犯人○○に関わる動機を作りだす苦労を考慮して★4。
ロジック ★★ ポアロの推理の大半は裏付けがなく、容疑者がボロを出すかたちで進んでいく。
プロット ★★★ せっかく長距離鉄道を舞台にしたのだから、もう少し動く鉄道が見たかった。
ストーリー ★★★★ 単純な筋ながら、雰囲気がある。作者の筆力の向上を感じる。
満足度 ★★★★☆ フーダニットとしても、旅情ミステリとしても、群像劇としても見どころは十分。

※採点項目の詳細については以下参照

フーダニット 犯人の意外性。単純に犯人の当てにくさだけでは決めない。ピースが嵌まるような爽快感重視。
ハウダニット 物理トリックや心理トリックなど各種トリック。必然性と噛み合うと高得点。荒唐無稽なのは減点。
ホワイダニット 犯行動機。必然性も重要だが新奇性、お涙頂戴系も評価対象。
ロジック 謎解きの合理性や登場人物の行動原理の妥当性など。納得感重視。
プロット 作品の構成力。伏線やミスディレクション、叙述トリックの巧みさなどもここに含む。無駄な要素は減点。
ストーリー 没入できたり、ページをめくる手が止まらないようなものは高得点。
満足度 読後感。必ずしも作品の質とは一致しない。多分に直感的かつ個人的。

項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品とのバランスを取るためにあとから評価を変更する場合もあります)。

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