アガサ・クリスティー長編十五作目/ノンシリーズ。
一粒で二度おいしいフーダニット。
あらすじ
牧師の息子ボビイはゴルフの最中に、崖下に転落した瀕死の男を発見する。男はわずかに意識を取り戻すと、彼に一言だけ告げて息を引き取った。「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」幼馴染みのお転婆娘フランキーと共に謎の言葉の意味を追うボビイ。若い男女のユーモアあふれる縦横無尽の大活躍!――早川公式サイトより
感想
こんにちは、箱庭皇帝です。
クリスティーの長編刊行順リストを眺めていて気づいたのですが、この作品を挟んで直前三作、直後九作がすべてポアロものになっています。おそらくクリスティーはこの時期からはっきりと「ポアロの作者」としてやっていくことを決意したのかもしれません。
そうした怒濤のポアロラッシュにあって、なぜ本作だけがノンシリーズなのか。その理由は本作を読めばすぐにわかります。というのもこの作品、いちおう殺人事件は起きますが、なんというか、全体をとおしての雰囲気が、作者の二十年代の冒険小説にそっくりなんですね。やはりクリスティー女史は探偵小説に本腰を入れつつも、定期的に冒険ものを書かないと禁断症状が出るようです(笑)。しかしながら冒険小説をポアロでやるのは無理があるので、ノンシリーズになったのでしょう。
で、肝腎の中身ですが、前作が『オリエント急行の殺人』、次作が『三幕の殺人』という有名作に挟まれているとは思えないほど、一見するときわめてオーソドックスな作品です。話の展開も過去の冒険小説の焼き直しと言っても過言ではなく、謎の秘密組織(らしきもの)が登場し、敵のアジト(らしきもの)に乗り込んで、背後から頭を殴られて捕まりますが、なぜかすぐには殺されず……と、読んでいる最中、何度も「これってどこの『秘密○関』?」とツッコミを入れたくなりました。しかしながらこれが書かれたのは作者のもっとも脂の乗った時期。当時の作者がそんな捻りもないただの焼き直しで満足するなんてことがありえるでしょうか。そういう観点から本作をじっくりと眺めると、いままで見えてこなかった作者の新機軸が浮かび上がってくるのです。同時に、この作品が二人の素人探偵で書かれなければならなかったもう一つの理由も明らかに? ……それについてはネタバレ感想のほうで。
それはともかく、冒頭の謎は『七つの時計』のように魅力的ですし、ダイイングメッセージは現実的とは言えないものの、その解決については『七つの時計』よりよほど満足感がありました。物語は終始どこに向かっているのか曖昧で、そのつかみどころのなさが、よくも悪くも作者の晩年の作品のようでもあります。
この作品は恋愛小説や友情小説としても、なかなかの及第点ではないでしょうか。恋愛小説としてはいつものクリスティー節が健在ですし、ミステリの本筋にもちゃんと馴染んでいます。バジャーとの友情物語も一昔前の青春小説のようで心地よいノスタルジーに浸れます。
というわけで、この作品は彼女の冒険小説が好きなかたには安心しておすすめできると思います。とりわけ若いころのトミーとタペンスシリーズがもっと読みたかったという人には最高のプレゼントになるでしょう。ぶっちゃけ、ボビイとフランキーがトミーとタペンスと入れ替わったとしてもまるで違和感がありませんから。
ネタバレ感想
個人的には、前作『オリエント急行の殺人』である種のフーダニットの極限にまで達してしまった感のあるクリスティーが、本作でどのようなフーダニットを披露するのかとても興味がありました。ドラゴンボールの戦闘力ではないですが、これ以上フーダニットの新奇性を追求していっても先がないのは明らかですからね。
実際がどうだったのかと言うと、本作のフーダニットは終始ふらふらと芯がなく進む感じで、率直に言ってあまり締まらない印象です。ではなぜそうなってしまったのか。作品を見返しつつその理由を考えていたのですが、そのうちに本書はライトな冒険小説の装いとは裏腹に意外と中身が濃いことに気がつきました。
というのも、今作の犯人はクリスティー作品にはよくある男女の共犯者なのですが、いつもと違い、その二人の犯人としての存在感がほぼ等しいのです。それゆえ、そのどちらにもしっかりとしたミスディレクションが用意されているという、ある意味とても贅沢なつくりになっています。それこそが気力が充実している時期の作者にしか成しえない意欲的なフーダニットの試みと言えるのですが、皮肉なことにそのせいで着目すべきフーダニットが二つに分断され、それが読者に散漫な感じを与えてしまうのです。
具体的には、フーダニットの一つの軸は死体発見現場に不自然に現れたロジャーを起点とした「怪しい人物がやはり犯人だった」パターン。もう一つの軸は夫に殺される恐怖に怯えるモイラを起点とした「標的がじつは犯人だった」パターンになります。それぞれ単独でも一つの作品になりそうなこの二つの軸が終始同時進行で進むので、読者は何について疑えばいいのか困惑しながら読み進めることになり、しかもその困惑が解けないうちに犯人が明らかになってしまうのです。またそのような複雑な構成になっているわりには、個々のフーダニット自体は『秘密機関』を思わせるシンプルさで、それがフーダニットの物足りなさを助長している感があります。もっとも、個々の軸まで重厚にしてしまうと、それこそ訳のわからないことになってしまうので、これはシンプルにするのが正解かもしれません。
ここまで来ると、この作品がポアロで書かれなかったもう一つの理由も察しがつきます。そう、二つのシンプルな事件を同時進行しつつ自然なかたちで長編とするには、あまり有能すぎない二人の探偵役が必要になってくるのです。
はたして本作は、さきに二人の素人探偵ありきだったのか、それとも必要に迫られて二人の素人探偵を創出することになったのか。真相は作者にしかわかりません。
【その他、メモ書き】
- 本作では探偵役の男女ともに犯人の男女の片割れに興味を惹かれるという構図の対称性が、テンプレといえばテンプレですが洒落ていますね。
- 被害者が女性の写真を持っていた理由が反転するところもクリスティーの十八番ですがすばらしい。
- エヴァンズ氏の居場所はおまけ的な要素ですが、もう少し前半部分に目立つかたちで登場してほしかったかな。
- 私の無知ゆえか、「エヴァンズ」という響きに、なんとなく男性の名前のようなイメージを持ちつつ読み進めていたのですが、名字だったんですね。なので、エヴァンズの正体が明らかになったとき、作者にそういう性別誤認や姓・名誤認の意図があったのかなと思ったのですが、本国ではエヴァンズといえばウェールズでの一般的な名字であって、そうした誤認は起こらないようですね。性別誤認は少しは意図していたかもしれませんが。
採点表
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品とのバランスを取るためにあとから評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/田村隆一(訳)] なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/長沼弘毅(訳)] 謎のエヴァンス (創元推理文庫)