アガサ・クリスティー長編二作目/トミーとタペンスシリーズ一作目。
若き日の二人の冒険譚。古き良き時代のスパイ小説。
あらすじ
戦争も終わり平和が戻ったロンドンで再会した幼なじみのトミーとタペンス。ふたりはヤング・アドベンチャラーズなる会社を設立し探偵業を始めるが、怪しげな依頼をきっかけに英国を揺るがす極秘文書争奪戦に巻き込まれてしまう。冒険また冒険の展開にふたりの運命は?――早川公式サイトより
感想
※既読ですが、ほぼ忘れています。
こんにちは、箱庭皇帝です。
みんな大好きトミーとタペンスシリーズの記念すべき第一作。意外なことにクリスティーの長編二作目でもあるんですよね。ひょっとするとこのころはまだポアロをメインでやっていくという心づもりは薄かったのかもしれません。
このシリーズは基本的に探偵小説ではなく、作者の裏芸であるスパイ小説です。とはいえ様式にこだわる女史のこと、探偵小説のフォーマットはきっちりと入れているのでスパイものに興味がない人もご安心を。
クリスティーはスパイものがわりと好きだったようで、探偵小説の合間合間に生涯にわたりスパイ小説を書いています。
私は基本的にスパイものというのは書くのが難しい分野だと思っていて、それは少しでも気を抜くと、読者に荒唐無稽だったり、最悪の場合幼稚だと思われてしまう危険性があるからです。当作品はどうかというと、舞台設定や登場人物の行動原理に多少荒唐無稽なところは見られるものの、機密書類の中身や国際・国内政治の難しい部分をうまくぼかしたり、若者たちを主役にすることで無鉄砲な行動に妥当性をもたせたりすることで、幼稚さはある程度避けられていると思います。
作者が自身の体験をもとにしたといわれる、「ジェーン・フィン」という名をトミーが耳にしたことから大きな陰謀に巻き込まれていく流れはとても巧みで、読者を飽きさせない工夫がよくなされています。反面、二人の主役のうちより慎重とされるトミーが敵のアジトに勢いで乗り込んでいくところなどはややご都合主義的展開に感じます。また主役の二人が行動をともにする機会が思いのほか少ないことについては賛否が分かれそうです。
どんでん返しについては、中盤のミスディレクションがかなり露骨で、探偵小説を読み慣れた人ならあまり騙されないかもしれません。しかしながらスパイものですらきっちりと探偵小説風の意外性をかかさないクリスティーの職人魂にこそ我々は敬意を表すべきでしょう。
トミーとタペンスシリーズは短編集も含め全部で五作あり、その最終作は作者の最晩年にあたりますが、その最大の特徴は作者と同様に主役の二人もリアルタイムで歳を重ねていくことです。すなわちベテラン作家が郷愁とともに書く成長物語でもなく、新人作家が背伸びして書く成長物語でもなく、何十年の時間をかけてともに歩みを進める作者と登場人物の成長物語を味わえるのはなかなか貴重な読書体験と言えるのではないでしょうか。
最後に翻訳でちょっと気になった点を。作品序盤のタペンスの台詞に、
‘Miss Cowley left the delights (and drudgeries) of her home life early in the war and came up to London, ...’
とありますが、さすがにこの時期に第一次と言わせてしまうのはまずいでしょう。
ネタバレ感想
この小説はトミーとタペンスというキャラクターの魅力を抜きにして語ると、どちらかというと辛めの評価になる人が多いのではないでしょうか。その理由は推理小説としてもスパイ小説としても中途半端な出来だからだと思います。
まず推理小説としてですが、結局のところ黒幕候補は二人に絞られ、その片方はあまりにも露骨な怪しさなので、すれた読者ならメタ的にほんとの黒幕はあっちなんだろうなあなどと考えてしまいそうです(褒められた読み方ではないですが)。
真っ当に推理するにしても、真の黒幕が物語終盤、ある手紙でタペンス(Tuppence)の綴りを間違う(Twopence)という初歩的なミスを犯すまで宙ぶらりんな状態が続き、決め手はまったくありませんし、ネイティブ読者にとってこれはかなり露骨なヒントに思えます。逆に日本語翻訳で読む場合、どちらも同じ「タペンス」になってしまい、そもそもヒントになっていません。
ただし本当の機密書類の隠し場所や、偽の書類の隠し場所に誘導されるくだりなどはなかなかよく考えられていますし、黒幕候補の片方をことさらに怪しく見せるための怒濤のミスディレクションも、それ自体は作者の面目躍如たる素晴らしさです。ただ如何せん本作は容疑者が少なすぎました。
私はスパイ小説にそれほど興味がないので、本作のスパイ小説としての出来については多くを語れませんが、その方面で本作を褒めている人をあまり見かけないので、まあその程度の出来ということでしょう。
本作を読んでいて個人的に面白いと思ったのは、いまも昔も政治闘争の中身が大して変わらないことです。この作品に出てくる登場人物や組織、思想などを現代日本のあれやこれやに当て嵌めてみてもまるで違和感がないかもしれません。あえて深掘りはしませんが。
いずれにせよこの作品はトミーとタペンスという魅力的な二人の主役を抜きにしては語れません。若き日の彼らの青春冒険活劇として見るならば、この作品は十分読むに値すると言えるでしょう。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品との兼ね合いで評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/嵯峨静江(訳)] 秘密機関 (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティ/野口百合子(訳)] 秘密組織 【新訳版】 (創元推理文庫)
【前作長編】 [アガサ・クリスティー/矢沢聖子(訳)] スタイルズ荘の怪事件 (クリスティー文庫) ※ポアロ