アガサ・クリスティー長編八作目/ポアロシリーズ五作目。
職業作家クリスティーの幕開け。
あらすじ
走行中の豪華列車内で起きた陰惨な強盗殺人。警察は被害者の別居中の夫を逮捕した。必至に弁明する夫だが、妻の客室に入るところを目撃されているのだ。だが、偶然同じ列車にのりあわせたことから、事件の調査を依頼されたポアロが示した犯人は意外な人物だった!――早川公式サイトより
感想
※既読ですが、まったく覚えておらず。
こんにちは、箱庭皇帝です。
青列車、すなわちブルートレインですね。昨今はなんでもかんでも横文字化する風潮のなか、かたくなに青列車呼びを続けるその姿勢、好感がもてます。文中では「ブルー・トレイン」になっていますが。
それはともかく読みはじめるとのっけからスパイだなんだと言いだして嫌な予感がしますが、スパイの話題が出るのは冒頭だけなのでご安心を。ちなみに本作は雑誌で連載したあとに書籍化されたのですが、連載時には冒頭二章は削られたらしいです。
『青列車の秘密』はクリスティーが「自身の作品のなかで不満があるものはどれですか?」と質問されたときに真っ先にあげるタイトルで有名です。自伝のなかでも、
と書いています。しかしそれに続けて、
とも言っています。私の再読後の感想でも、そこまでひどい作品とは思えませんでした。
これを執筆していた当時の作者は、少し前に母親を亡くし、夫の浮気が発覚し、経済状態も芳しくないなど精神状態が最悪のときで、そうした嫌な思い出も自身による酷評に少なからず影響しているのかもしれません。それと同時に彼女の作家としての心構えにも根本的な変化を与えました。それまでは「書きたいから書いていた」のですが、これからは「書きたかろうが書きたくなかろうが書かなければいけない」状況になったのです。すなわち本当の意味で書くことが「仕事」になりました。
その「仕事」における最初の長編作品がこの『青列車の秘密』でした。そしてこのときの作者はまさに書きたくない精神状態でした。気分が乗らずに作品を仕上げるためには、情熱ではなくテクニカルに作品を組み立てなければなりません。そのためこの時期に作者は意識的にせよ無意識的にせよ、過去に物した作品を見つめ直し、自分の作風や強みについて整理することを余儀なくされたのではないでしょうか。
じっさいこのあたりから、私がイメージするところのクリスティー作品の特徴が色濃く出始めています。すなわち、「ほどほどに楽しく、ほどほどに複雑で、ほどほどに意外で、ほどほどにメロドラマで、すらすらと読める」、そんなバランス感覚に優れた作風です。いっぽうで旧時代のスパイ劇の残り香も感じとれることから、本作はクリスティーが成熟した作家へと脱皮する過渡期の作品の一つと言えるのではないでしょうか。
『青列車の秘密』はポアロ長編としてはじめて三人称を用いた小説です。三人称小説とすることで、手記形式特有の視点の縛りから解放され、より群像劇めいた物語が可能になりました。反面、相対的にポアロの出番が少なくなるという欠点もあるのですが、私は手記形式より三人称形式のほうが好きですね。
ちなみにクリスティーの三人称は現代で主流の一人称的三人称と違い、章内で視点がコロコロ変わるし、さまざまな登場人物の心の中も読み放題と、かなり柔軟な神視点を採用しています。昨今では推理小説でこの手の三人称を見かけることは少なくなりましたが、個人的には子供のころに慣れ親しんだこともあり、こういう文章の切れ目なく視点が次々と切り替わる小説もけっこう好きだったりします。そのせいで彼女の小説が読みにくいと思ったこともないですしね。
作中にセント・メアリ・ミード村が出てきたことには驚きました。細かい設定は違うようですが、これってけっきょくミス・マープルの住んでいるあのセント・メアリ・ミード村ってことでいいんでしょうか?
ネタバレ感想
本作ではフランスのカレーから南仏のリゾート地に向かう寝台特急の個室で殺人事件が起こりますが、『オリエント急行の殺人』とは違い、物語の大半が列車外で進行します。しかしながら犯人の仕掛けるアリバイトリックに関わることから本作での列車の移動も物語の単なる舞台装飾ではなく、ある程度の必然性を伴っています。ただし『オリエント急行』のような旅情性はそれほどありません。
事件はルーファスの秘書であるナイトン少佐とルースのメイドであるエイダ・メイスンの二人による犯行で、たがいに相手のアリバイを証言するのがトリックの肝。わかってみればよくあるトリックだが、隠し方がなかなか巧みです。
残念ながらエイダ・メイスンのキャラクターはあまり掘り下げられてはおらず、ナイトン少佐との関係性もいまいちよくわかりません。ナイトンがキャサリン・グレーにマジ惚れしたことから計画が綻んでゆくわけですが、それを見てエイダはなにを感じていたのでしょうか。
そのナイトン少佐は目的のためには殺人もいとわない冷血漢ですが、この手のタイプの男ってこんな局面で女性にマジ惚れしますかね? 個人的にはかなり違和感を覚えますが、まあそれくらいキャサリン・グレーという女性が魅力的だったということにしておきましょう。
まともな推理でこれらの犯人を当てることは困難でしょうが、メタ的には、
というポアロの台詞から、クリスティーをよく読んでいる人なら犯人の一人が推測できるかもしれません。
それよりもこの作品で特筆すべきはメロドラマの部分でしょう。いつもの幸せな物語ではなくひどく屈折しているのです。本作に登場する主要な女性キャラはキャサリン・グレー、レノックス・タンプリン、ミレーユの三人です。
キャサリン・グレーは本作のヒロインと言ってよく、控えめで思慮深く、魅力的な性格をした女性です。レノックス・タンプリンはずけずけと物を言うが、根は善良な娘です。ミレーユはプライドが高く、金やステータスが大好きな典型的な悪女キャラと言っていいでしょう。
これまでのクリスティーの作品なら、キャサリン・グレーかレノックス、あるいはその両方が素敵な男性と結ばれてハッピーエンドといったところでしょう。ところが本作では、レノックスの恋は実らず、キャサリン・グレーはだらしがないギャンブラー気質のひも男の求愛を受け入れる(ことが示唆される)のです。クリスティーは女性作家ですから、ひょっとするとレノックス曰く「聖母のような」女性(キャサリン)が自称「悪いことをたくさんしてきた」イケメン男(デリク)を改心させ、二人で幸せに暮らすというハッピーエンドを意図しているのかもしれませんが、私を含めほとんどの男の視点では(ほとんどの女性の視点でも?)このようなクズ男の性根はおそらく死ぬまで変わらないので、キャサリン・グレーは茨の道を歩むことになるでしょう。
そしてこの作品にはとても高価な宝石が出てきますが、最終的にそれを手に入れたのはなんと悪女キャラのミレーユなのです。
これらのなんともモヤモヤする結末が当時のクリスティーの精神状態の表れだと考えるのは深読みのしすぎでしょうか。ともあれこの作品の仮題が(その他女性陣も含めて)『だめんず・うぉ~か~』であったことは間違いありません(笑)
その他、メモ書き。
- レディ・タンプリンの夫であるチャールズ・エヴァンズの役割はいったい何だったのでしょうか。最初は意味ありげに登場してきたのにいつの間にか消えてしまいました。
- ナイトンの頭文字。『秘密機関』に続いて、翻訳ものの限界が。あのときも思ったがネイティブにはどの程度のヒントになるのでしょうか。
- セント・メアリ・ミード村のミス・ヴァイナーさんがいい味出しています。終わり間近の「今朝言ったことを全部取り消します。あれは本物です」とか、読み返すと吹き出してしまう。クリスティーってこういうおば(あ)さんを描写するの、ほんと上手いよね。
- 宝石を盗むのに殺しまでおこなう理由が「生まれついての人殺し」というのはちょっと残念。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品との兼ね合いで評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/青木久惠(訳)] 青列車の秘密 (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティ/長沼弘毅(訳)] 青列車の謎 (創元推理文庫)
【前作長編】 [アガサ・クリスティー/中村妙子(訳)] ビッグ4 (クリスティー文庫) ※ポアロ
【次作長編】 [アガサ・クリスティー/深町眞理子(訳)] 七つの時計 (クリスティー文庫) ※バトル警視