アガサ・クリスティー長編十八作目/ポアロシリーズ長編十一作目。
クリスティー純粋パズラー時代の集大成的作品であり、ミッシングリンクもののメルクマール。
あらすじ
ポアロのもとに届いた予告状のとおり、Aで始まる地名の町で、Aの頭文字の老婆が殺された。現場には不気味にABC鉄道案内が残されていた。まもなく、第二、第三の挑戦状が届き、Bの地でBの頭文字の娘が、Cの地でCの頭文字の紳士が殺され……。――早川公式サイトより
感想
※再読ですが、何となくしか覚えていませんでした。
こんにちは、箱庭皇帝です。
『ABC殺人事件』。まず、タイトルが秀逸ですよね。おそらくこのタイトルをはじめて見た誰もが、「え、なにそれ面白そう」ってなるタイトルだと思います。青年時代の私もまさにそうでしたね。もっとも、日本で言うなら『あいうえお殺人事件』とか『いろはにほへと殺人事件』とかになるのでしょうか。これだとだいぶ趣が変わりますかね。ネイティブ読者の印象が気になります。私はこれらも嫌いじゃありませんが。
もちろん『ABC殺人事件』はタイトルだけでなく、そのプロットもいわゆる「ABCパターン」として「ミッシングリンク(的な)もの」のメルクマールとなっています。しかもそれだけでなく、「見立て殺人」、「シリアルキラー」、「劇場型犯罪」など現代でもお馴染みの要素を現代的な探偵小説に本格的に取り入れた最初期の作品でもあり、直接あるいは間接的に後続作家に与えた影響度では、『アクロイド殺し』や『そして誰もいなくなった』に匹敵するかもしれません。
そしてこの作品は純粋に面白いですね。犯人が探偵に挑戦状を送るというのも興味が引き立てられますし、A、B、C~とさまざまな場所で流れるように事件が発生するので、捜査パートの退屈さをあまり感じません。また、アレグザンダー・ボナパート・カストなる人物が主役の三人称パートがところどころに挟まれる趣向は作者の新しい試みであり、プロットに厚みを加えています(ただし個人的には一人称の合間に三人称が挟まる形式というのは作為が過ぎてあまり美しいとは思いませんが)。私はここまでのクリスティーの長編作品のなかで、もっともページをめくる手が止まりませんでした。

この作品は犯人がポアロを名指ししてくるので、ポアロの存在感がいつになく高いのもいいですね。またその理由も十分納得できるものです。本作におけるヘイスティングズの存在も、彼の言動自体がミスディレクションや問題解決に深く関わっている点で、そのキャラクター性がプロットに直結しています(まあ、この点については本作にかぎらないですが)。
『ABC殺人事件』は『アクロイド殺し』、『オリエント急行の殺人』、『そして誰もいなくなった』と並ぶ、クリスティーの代表作の一つですが、これらのなかではもっとも奇をてらったところが少ない、直球勝負の作品です。そういう意味では、クリスティーに興味を持った読者が最初に読む作品としてもかなりおすすめできるのではないでしょうか。
ネタバレ感想
本作はいわゆるミッシングリンクものとしてしばしば参照される存在の一つであり、それはいわゆる「ABCパターン」として知られています。ただし、本格ミステリにおける「ミッシングリンクもの」の第一義が「たがいに無関係に見える事件に隠された繋がりを見抜く」というものであるとするならば、本作のそれは「たがいに繋がりがあるように見える事件のなかで特別なものを見抜く、あるいは繋がりがないことを見抜く」という、思考のベクトルが逆向きであることに気づきます。そしてなぜ今回の事件が当初からたがいに繋がりがあるように見えるのかと言えば、それはポアロに届けられたABCを名乗る犯人からの挑戦状と、被害者のかたわらに置かれた「ABC鉄道案内」の存在があるからです。
となると、「ABCパターン」はミッシングリンクとして語られることが多いですが、その核心はむしろ「木を隠すなら森の中」であり、かつ「いかにその森を(読者に対して)キャッチーに見せられるか」にあるのではないでしょうか。そういう意味において、「ABC」、すなわちアルファベットの順番というのは、きわめてシンプルかつ根源的で、まさに後世にこのパターンの代名詞として扱われるにふさわしい題材と言えるでしょう。
本作はしばしば過去作の『三幕の殺人』との類似性が指摘されますが、無個性な事件が淡々と連続した『三幕の殺人』がそのせいで捜査パートの退屈さを生じさせてしまったのに対し、本作はこの「ABCパターン」自体が魅力的なので、あまり読者に中だるみを感じさせないようになっています。
その点で過去作の上位互換と言えなくもないですが、いっぽうでフーダニットのほうは驚くほど単純というか教科書的になっています。というのもフーダニットの基本構造は、
- 様式美としてのいかにも怪しい容疑者。読者の誰も真犯人とは考えない。
- レッドヘリングとしての偽犯人。作中ではそれほど疑われていないが、メタ的にはほんのり怪しくて、作者としてはこちらを疑ってほしい。
- 真犯人。
あたりじゃないかと私は考えますが、普通はこの構造を基本形として、そこからいろいろ改良を加えるわけです。ところが本作のフーダニットは、1にあたるのが「アレグザンダー・ボナパート・カスト(およびドナルド・フレイザー)」で、2にあたるのがおそらく二番目の犠牲者の姉である「ミーガン・バーナード」、そして3の真犯人が三番目の犠牲者の弟である「フランクリン・クラーク」となり、まさにこの教科書的構造そのままです。またABCD四つの事件のうち三番目の殺人が本命という、バランス的に誰もが真っ先に考えるであろう非常に素直な「木の隠し場所」と言えるでしょう。
深読みするとこの作品あたりからクリスティーはフーダニットなどの意外性を生み出す各要素とプロットの整合性とが対立するときに、後者のほうをより重視するようになっていったのではないでしょうか。私はこうした場面で意外性を重視したせいでいびつな作品になってしまった例をたくさん見てきているので、これ自体は必ずしも悪いことだとは思いません。
また見方を変えれば1のタイプの容疑者の行動や内面を詳細に書くことで、フーダニットの要素を残しながら倒叙作品のような読書体験も味わえるという、ある種とても贅沢な作品になったと言えるかもしれません。
本作の一番の弱点は何と言ってもホワイダニットでしょう。
私は本格ミステリにおけるホワイダニットには二つの異なる要素があると思っていて、一つは当然ですが、なぜその人物を殺さなければならなかったのか。もう一つは、なぜその方法で殺さなければならなかったのか。本作において前者は可もなく不可もなくといったところですが、後者はツッコミどころが満載です。あまりにも非現実的であり、かつ労力と成果が釣り合っていません。これは前作でも思いましたが、クリスティーはあるアイデアを思いついたら、犯人がその方法を使う必然性はあまり考えないまま作品にしてしまうことがけっこうありますね。
また殺害方法についてですが、個人的には『三幕の殺人』にはまだ理解できる部分がないではないですが、こちらのように立場も生活圏も純粋に無関係な人間に対し、まだ精神的に極限まで追い込まれているわけでもない段階から、一つの目的のために冷静に計画を立てたうえで「直接的に」手を下すというのは、いくらなんでもそこまで非道になれる人間がこの世にいるだろうかとちょっと疑問に思ってしまいます。これは自暴自棄になって無差別に人を殺すのとは次元の違うくらい決断力の必要な悪魔的所業だと個人的には思います。
ともあれ、そうした瑕疵を軽々に吹き飛ばすくらい、元祖「ABCパターン」には圧倒的な魅力や説得力があるのは確かです。
【その他、メモ書き】
- 上ではここまで無慈悲に計画殺人を行えるかと疑問を呈していますが、フランクリン・クラークのキャラクター自体は嫌いではありません。犯行が暴かれた瞬間に、「赤、奇数、負けだ! あなたの勝ちだ、ムッシュー・ポアロ! だが、やってみるだけのことはあった!」と言って、ためらいなく罰から逃げようとするところなど最後の最後まで清々しいくらいの悪党ぶりで最高です。まあ、死ねませんでしたが。
- 手紙の細工をしたのが本命のCの殺人というのも、メタ的には非常に素直なトリックですよね。まあ、読者は逆に深読みしてしまいそうですが。
- ポアロさん、ソーラ・グレイになかなか辛辣ですな。クラーク夫人の言っていることが真実だったと言いたいのでしょうか?
- ABCのうちBだけ殺害方法が違っている(趣が違う)のが、Bの事件が真の目的なのかと思わせるうまいミスディレクション。厳密に言えばDも違うけど、まあ、こちらはオマケなので。
- ポアロがかなり早い段階で犯人の性別を男だとやや決めつけ気味に語るのも、逆に犯人が女かもしれないと思わせる作者のミスディレクションかなと思いました。
- 本作は『三幕の殺人』との類似点ばかりが指摘されますが、個人的には『雲をつかむ死』とも類似点が少なくないように思います。この三作は「フーダニット」、「トリック」、「プロット」のそれぞれに強み弱みがばらけていて、面白いです。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品とのバランスを取るためにあとから評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/堀内静子(訳)] ABC殺人事件 (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/深町眞理子(訳)] ABC殺人事件 (創元推理文庫)
