アガサ・クリスティー長編十九作目/ポアロシリーズ長編十二作目。
人間ドラマと本格ミステリの華麗な融合。異国情緒もよし。
あらすじ
考古学者と再婚したルイーズの元に死んだはずの先夫から脅迫状が舞い込んだ。さらにルイーズは寝室で奇怪な人物を見たと証言する。だが、それらは不可思議な殺人事件の序曲にすぎなかった……過去から襲いくる悪夢の正体をポアロは暴けるか? ――早川公式サイトより
感想
※既読ですが、トリック以外はなにも覚えておらず。
こんにちは、箱庭皇帝です。
前作『ABC殺人事件』において、「ABCパターン」というミステリ史に燦然と輝く名プロットを生みだしたクリスティーが次に書くのはどのような作品か。英国を舞台に都会的で流れるような展開だった前作からは一転、本作は中東の考古学の発掘現場という、きわめて閉鎖的で濃密な人間関係のなかで物語は展開していきます。
ご存じのようにクリスティー自身が考古学者の妻として、こうした発掘現場を実際に体験していたこともあり、その描写にはきわめてリアリティがあります。その一方で、記述者を考古学には疎い英国人の看護婦にすることで、あまり内容が専門的になりすぎないように、抑制を働かせているのはさすがです。遠い異国の遺跡発掘現場という舞台はたしかにワクワクしますが、多くの読者はそうした非日常の雰囲気に浸りたいだけで、必ずしも詳細を知りたいわけではないですからね。
本作ではクリスティーには珍しく、複数の意欲的なトリックが用いられていますが、残念ながらそれらの評価は発表当時から現在にいたるまで必ずしも芳しいとは言えません。私自身も初読時にはトリックばかりが印象に残り、本作の満足度はそれほど高くありませんでした。
しかしながら今回読み返して思ったのは、作者がこの作品で本当にやりたかったのはそうした派手なトリックではなく、「ルイーズ・レイドナー」という一人の女性に対する印象が、見る人によってさまざまに変化するという、人間の多面性を謎の軸に据えることだったのではないかということです。つまり本来は上質な心理劇として読まれるべきであったのが、なまじトリックの存在感が強すぎたために、心理劇としての側面が相対的に見えにくくなってしまったという、ある意味で不幸な作品と言えるかもしれません。
ネタバレ感想
ということで、本作には以下にあげるように、とても印象に残るトリックが二つあります。
- 階下にいる被害者の頭が窓から出た瞬間を狙って、屋上から重い鈍器(石臼)を落として撲殺する。
- むかし別れた夫が別人になりすまして、再度同じ女性と結婚する。
そしてこれらのトリックはその実現可能性の低さから、概して評判が悪いと言っていいでしょう。
1については、本作では夫人に窓から顔を出させるため、窓の外に粘土の仮面が浮かび上がる細工が施されています。しかし、いくら昼間とはいえ、日ごろから神経過敏になっている夫人がそれを単なるいたずらと受けとり、怒りにまかせて鉄格子のあいだから顔を出すと見込むのは、やや楽観的に過ぎるように思われます。さらに、その瞬間を狙って正確に石臼を落とすとなれば、物理的にも相当な困難が伴うでしょう。
2については、ひと目「ありえんだろ」と言いたくなってしまいますが、冷静に考えてみると、どうでしょうか。作中でポアロ自身に、
と言わせているように、十人中二人くらいは見抜けないということもあるかもしれません。いずれにせよ現実でこんな場面に直面した人はまずいないので、気づかないわけがないとまでは断言できないような気がします。
私がなにを言いたいのかというと、同じありえなさでも2よりも1のほうがよりありえないのではないかということです。ところが本格ミステリの暗黙の了解という観点からは、逆に1は十分推理可能だから許容できても、2は許容できないと考える人のほうが多いのではないでしょうか。本作の二つのトリックは、本格ミステリにおけるフェアネスとは何かを考えるうえで恰好の題材と言えそうです。
ところで私は本作を読んだ直後、なぜ作者は新しい夫を弟にしなかったのだろうと疑問に思いました。そのほうが読者の不満は少なかったはずです。しかし夫の正体が弟の場合、読者もすぐに感づくかもしれないと作者は判断して断念したのかもしれません。また、心理劇という点では、同一人物の執着のほうがたしかに面白いですね。
ネタバレなしの感想でも述べたように、本作でクリスティーがもっともやりたかったことは、この派手なトリックよりも被害者であるルイーズ・レイドナーを中心とした多面的な人間関係がもたらす閉じた世界の綻びとその帰結でしょう。その観察者であり記述者をいつものヘイスティングズではなく、被害者と同じ性別の英国人の看護婦にしたのは、この濃密な人間ドラマを描くに適切な配役でした。おかげで、閉じた世界の繊細な人間関係が女性ならではの視点でうまく表現されています。そしてなぜ生前の被害者の世話をするのが看護婦でなければならなかったのかということにちゃんと理由があったのも素晴らしいです。
今回ポアロは被害者であるルイーズ・レイドナーの複雑な人となりの分析を通して事件の真相を明らかにします。それが作者のやりたかったことだったにせよ、今作でのポアロの推理は仮定に仮定を重ねたうえで最後も真犯人の自白に依存しており、論理に少なからぬ飛躍があると言わざるをえません。この事件のあとに出くわした『オリエント急行の殺人』の推理もかなり強引だったので、今回の事件の成功で味を占めたということでしょうか(笑)
本作の登場人物表を見ると「遺跡調査団員」だらけなので、各登場人物をちゃんと覚えられるか心配だったのですが、そこはしっかりと書き分けられていたので、意外と覚えるのに苦労はしませんでした。欲を言えば、そのなかでも比較的重要度の高いリチャード・ケアリーについてはもう少し深掘りしてほしかったかなと思います。そのリチャード・ケアリーを妖艶な女性がからかううちにだんだん本気になっていくという展開も、ありがちですが嫌いではありません。ラヴィニー神父の正体については、さすがにここまでクリスティーを読んでいるとすぐに察しがつきますね。
ちなみに本作の被害者は英国の著名な考古学者であるレナード・ウーリーの妻、キャサリン・ウーリーがモデルと言われています。クリスティーはキャサリンと親しい間柄でしたが、彼女の気まぐれなふるまいにはしばしば閉口させられることがあったようです。キャサリンの存命中にこの本を著したクリスティーは恐るおそるウーリー夫妻に献本したそうですが、驚いたことに彼女は自分がモデルとは気づかずに「素敵な本ね!」と言ったとか。しかしながらこれはちょっとできすぎた小話で、実際には気づいたうえで楽しんだ可能性のほうが高いように思います。
【その他、メモ書き】
- 上では物理トリックの実現可能性に疑問を呈しましたが、そのヒントの出し方にはキラリと光るものがいくつもありました。ポアロがさりげなく鉄格子のあいだから頭を出したり(頭が入る鉄格子ってあるの?)、アン・ジョンソンが耳にした悲鳴のくだりなどはさすがクリスティーといったところです。
- そのアン・ジョンソンですが、本作での扱いはあまりにも不憫ですね。
- エイミー・レザランにロマンスがないのは意外でした。途中ありそうな雰囲気だったのにね。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品とのバランスを取るためにあとから評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/田村義進(訳)] メソポタミヤの殺人 (クリスティー文庫)
【Amazon】 [アガサ・クリスティ/厚木淳(訳)] 殺人は癖になる (創元推理文庫)
