アガサ・クリスティー長編十七作目/ポアロシリーズ長編十作目。
超絶閉鎖空間で展開される一見無謀なプロットをしっかりと形にする、作者の圧倒的演出力。
あらすじ
パリからロンドンに向かう飛行機のなかで、金貸しの女性が死体で発見された。その首には蜂に刺されたような傷があったが、偶然乗り合わせたポアロは、床から人工の毒針を拾い上げる。衆人環視の客室内で、誰がいつ犯行に及んだのか?大空の密室を舞台とした不可解な事件にポアロが挑む。――早川公式サイトより
感想
こんにちは、箱庭皇帝です。
この作品は既読で、具体的な犯人は忘れていたものの、その意外性に驚いた記憶があります。それに大空の旅ということで、オリエント急行とはまた違った、開放的な旅情感をともなう心地よい読書体験ができたような印象も薄っすらと残っていました。
ということで、どちらかと言えばワクワクしながら本書を読みはじめたのですが、まず最初に冒頭に示された見取り図を見て驚きました。大空の広がりとは正反対の、事件現場の圧倒的な閉塞ぶり! こんな衆人環視のもとで、どうやって殺人をおこなえると言うのでしょうか。
正直、種が明かされると、「オイッ!」と突っ込みたくなる要素が満載ですが、それでも私は、このトリックをふと思いついた作者が、それを一冊の長編として完成までこぎつけたその剛腕ぶりに感嘆の念を禁じえないのです。
考えてもみてください。おそらくは鉄道よりももっと視界良好な客室であれをこうして、こうやって~……などと目をつむりながら想像すると、こりゃアカン、って常人なら思うはず。それを彼女はやってのけたのです。そして、ええ、白状しますけど、若いころの私はそれほど違和感を覚えませんでした。犯人が明らかになったとき、狐につままれたような感覚になりましたし、いきおい「これは傑作だわ」などと素直に感動したように記憶しています。
もちろん、目の肥えたいま、そして再読とあっては、この作品のアラが嫌でも目につきます。それでも私は、なぜだかこの作品を嫌いにはなれません。じっさいに空を飛んでいる場面は少ないにも関わらず、この作品を読んでいると、ちゃんと大空を旅しているような高揚感があるんですよね。これは『オリエント急行』のときも思いましたが、やはりクリスティーは旅の趣を表現するのがとてもうまい作家さんだと思います。おそらくそれは彼女自身が無類の旅好きであるからこそなせる技なのでしょう。
ネタバレ感想
前作『三幕の殺人』の感想で、私は再読のほうが面白い箇所も少なくないという趣旨のことを述べましたが、この作品は全体的に初読のほうが面白いですね。大空の逃げ場のない閉鎖空間のなかで、気づいたら人が死んでいて、さらには蜂だの吹き矢だのいろいろなガジェットが出てきて、人の動きも丸わかりのなか、登場人物はみなそれといって怪しい動きもしていない。なんだか滅茶苦茶ワクワクしませんか?
ただし真相が明かされてなおこの作品に満足するためには、まだ若く、探偵小説を読みはじめたばかりで、本格ミステリにおいては犯人が意外であれば概ね満足、という価値観をもっている必要があるかもしれません。まあ、ようするに本作をはじめて読んだころの私のことですが(笑)。そのときの私の感想は、いまではだいぶおぼろげではあるものの、たぶん犯人に驚き、変装トリックも違和感なく受け入れ、蜂に吹き矢にといろいろ手が込んでるなぁと素直に感心したんでしょう。
しかしながらこの歳で再読して感じたのは、まず第一に変装トリックが受け入れがたい。理論上は可能かもしれませんが、これを実行に移すには信じがたいほどの度胸が必要でしょう。いかに犯人が異常性格だとしても、衆人環視の状況で、ましてや気になる女性が目の前にいる状況で、そんな気になれるでしょうか。そもそもこの状況下で無理に殺人を犯す理由が彼にはありません。できればこれについては、もう少し犯人に時間的に追い込まれる必然性を用意してほしかった。さらに言えば、容疑者の持ち物リストのなかの白い服と乗務員の制服とを結びつけろというのはさすがに無茶な気がします。まあたしかに、なぜフランスへの休暇旅行に歯科医の服を持っていかなければならなかったのかという理屈は、ロジックとしてギリギリ成立するかもしれませんが。
それから鉢と吹き矢という二段構えが冗長に感じます。人によっては、二つの偽装工作を用意しているなんて贅沢だと感じるかもしれませんが、私にはこれらは、ただいたずらにややこしくしてやろうという作者の魂胆が透けて見え、あまり「美しさ」を感じません。では、なぜそのようなことをする必要があったのかというと、どちらか一方では、手で針を刺したという本当の手段をすぐに見破られると思ったからでしょう。そこで一つの偽装工作をさらに煮詰めるのではなく、物量作戦で乗り切ろうとするところに作者の妥協が感じられるのです。
冗長さについてはもう一つ、終盤に被害者の娘がじつは飛行機に乗っていたというのも、私の美意識ではあまり美しいとは思えず、なんだか思いついたからとりあえず入れてみました、みたいな適当さを感じてしまいます。どうせ共犯なら、たとえば凶器や証拠の品をリレー形式で「娘→ゲイル(実行)→娘」として証拠を隠滅するとか、もう少し搭乗に積極的な意味をもたせてほしかったです。
――と、なんだか不満ばかりを述べてしまいましたが、ちょっとこれは作者に対して公平性を欠いているかもしれません。というのもとくにトリックに関してですが、自分の読書体験を振り返ると、こうした無茶なトリックでも満足した作品はけっこうあるんですよね。では、なぜここまで不満が目についたかと言えば、それは私がクリスティーという作家にトリック重視の作品をあまり期待していないということがあるでしょう。こちらがトリック期待モードの読書をしていないときに、とつぜん非現実的なトリックを見せられたせいで、評価が辛辣になりすぎたきらいはあります。
最後に、繰り返しになりますが、この作品、個人的にはけっして読後感は悪くないんですよね。クリスティーのなかでは、好きか嫌いかで言えば、むしろ好きなほうの部類に入ります。でも冷静に考えてみるとツッコミどころはたくさんという、なかなか不思議な作品ではあります。
【その他、メモ書き】
- 本作はよくも悪くもいくつかの過去作に非常に似ている部分があります。犯人と共犯者の関係はあれにそっくりですし、犯人が○○役をやるところはあれにそっくりです。
- ポアロがジェーン・グレイをジャン・デュポンにくっつけさせようとしたところで犯人にピンときた人も少なくないでしょう。どうも作者はこうした事件とは無関係の展開も、フーダニットにおけるフェアネスの一環として提示しているふしがあります。もしそうだとするならば、エラリー・クイーンの作品と対峙するときのような読み方は、そもそも根本的に間違っているのかもしれません。もっともこの時点ではジェーン・グレイも容疑者の一人なので、ただのミスディレクションの一つなのかもしれませんが。ここら辺は再読なので私の目が曇っている可能性もあります。
- 途中、事件前後で各容疑者の立場がどう変化したかをポアロがリスト化しますが、ノーマン・ゲイルが悪化組にいるのはうまいですね。
採点
※採点項目の詳細については以下参照
項目は多すぎず少なすぎずをモットーに7つに厳選したので(ほんとは5つまで絞りたかった)、ミステリ小説の通常の評価軸とは若干異なるところがあるかもしれませんがご了承ください。あまり厳密にやりすぎるのも息苦しいので、アバウトに捉えてください。★1点、☆0.5点の5点満点(他作品とのバランスを取るためにあとから評価を変更する場合もあります)。
関連リンク
【Amazon】 [アガサ・クリスティー/田中一江(訳)] 雲をつかむ死 (クリスティー文庫)
